”これは差別ではなく区別”と発言するニンゲンが時たまいる。そういうニンゲンの多くは、じゃあ差別と区別はどう違うと聞かれても答えられないパープリンであり、単に自己正当化がしたいがために便利だからということで使っているに過ぎない。

LGBT支援に関しては、2015年3月に自身のブログで「生産性のあるものと無いものを同列に扱うには無理があります。これは差別ではなく区別です」とも発言。

 つまりはこの杉田水脈というヒトも、そのパープリンの類ではないかとみている。この一連の”生産性がない”発言も安直すぎる。いまの時代こういうわかりやすい下衆な発言の方が、一部のヒトビトの熱狂的な支持を受けられるようだ。

 生産性というのは、子どもを産むか産まないかというような二元論で単純に語れるものなのか。独身であっても、仕事で世の中の役に立つことだって、社会の一員として子育てしているヒトを助ける活動をすることだって、生産性があることではないのか。

 ヒトそれぞれに合った生産というものがあろうに。それにその生産性があるかないかというテーマにおいて、LGBTのヒトだけを攻撃対象としているのが、非常にイヤらしい。多数派を形成したいから、よけいなものまで敵に回さないようにしようという意図がみえみえだ。

 実際は結婚しない、子どもを作らないニンゲンすべてが”生産性がない”の対象であるはずなのに、少数のLGBTのヒトのみをやり玉にあげる。これはつまり「LGBTのニンゲン以外のことは言っていない」という逃げ道でもある。

 思っていたとしても言葉にしなければ、「言っていない=思っていない」とまやかすことができるのである。そういう点ではこざかしさもあるわけで、これはこれでタチが悪いといえるだろう。

 そもそも差別、まあ区別でもなんでもいいが、そこに付随する見えない侮蔑の心というのはタチが悪い。いろいろな悪知恵を生み出し、巧妙に少数派に対してダメージを与えるのだ。小生にできるのは、それらひとつひとつを見抜いて、引き込まれないようにすることのみだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。