ハードボイル道 ~死生観と生き方を考えて~

表題のとおり。あとおまけとして管理人が撮影した写真も載せてい〼

カテゴリ: 日記

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 まったくもってその通りなのだ。高温多湿な日本で、夏の真っ昼間に競技をやらせようなんて、正気の沙汰ではない。宿る健全な精神も、不健全な身体から抜けていくというものだ。健全な精神さえあればなんとかなるとか思っているヤツ。うさぎ跳びで校庭10周。

 選手の体調面もそうなのだけれども、夏の真っ盛りにやるというのは、日本の美しさと照らし合わせても、ふさわしくない。日本には四季というものがある。そしてスポーツの祭典を美しく締めくくるのも、秋がふさわしいのだ。

 10月10日が体育の日で、この日は1964年の東京オリンピックの開会式であったのは知っての通り。オリンピックは当時15日間であったから、閉会式は10月24日ということになる。

 当時の映像をみてほしい。モノクロームなせいもあるが、なんと美しく幻想的な風景であろうか。幻想的な風景というのは、まだ日も高く暑くて騒々し気な夏の夜よりも、涼しくて日もとっぷり暮れる静かな秋の夜にこそ生まれる。

 どこかの大国の都合かなんだか知らないが、日本の美しき風土の特徴を無視して話をすすめないでいただきたいものだ。きっぱりと断ろうともしない日本のお偉いさんもお偉いさんだけれども。夏にやるという開催案にNOと言えなければ、日本でやる意味はない。

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 ばたけんこと小生は、現在ノンポリである。なので選挙にも行かない。いつか詳しく書くが、政治思想というものを持ってしまうと、人と人の間に垣根を作ってしまい、話し合いの障壁になってしまうという人生哲学があるからだ。



 そんな小生が、なぜ今回この長谷川豊氏の発言を問題視したのか。それは”デマを流した者勝ち”になりつつあるこの実社会とネット社会にたいして、一石を投じたかったというのがある。

 もはや小生がこのことを指摘する前に、”日共が義援金を懐に入れている”という「デマ」はTwitterという伝播力の強いツールを以て拡散されてはいた。それをみて、でもこういうのがまかりとおるようになったら世も末だと考えたわけだ。

 こんな言葉だけを駆使したやり方で、敵対勢力の支持率を削れるような簡単な世の中になったら、日々草の根の活動そのものが無駄ということにもなりかねない。つまりはそういうことである。

 そんなわけで、一石を投じることができたということで、これ以上は長谷川に対してどうこう語ることは止めにする。まだ他の人は彼に対して発言しているけれども。彼らにたいしても思う。そればっかりやっているわけにもいかんだろう。

 もっといろんな観点で社会というものを語るべきだ。政治だけが社会じゃない。

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 長谷川はこの日生学園第二高校(当時)に籍を置いていた。全寮制の学校だからどうこうと言うつもりはないが、この学校の特色は長谷川の人格形成に大きく関わったのではと推測する。

 男子生徒はみな丸坊主。学校の授業以外に、全員でマラソンをさせたり、全力心行という大声を出して雑巾がけをさせるような全体行動をさせたりと、こうなってくると生徒の思考が停止する。

 そのような生徒が人里離れた学校の寮という狭い空間のなかで暮らすわけで、そうするとどうなるか。先生や先輩など上の者に従順になる。そうしないと集団のなかで生き残れないからだ。だがそのなかで時には上から理不尽な圧力もかけられる。

 そのときにたまった鬱憤のようなものは、どこにむけられるか。結局は弱いものに向けられるのである。集団生活についていけない落ちこぼれにたいして、みんなでいじめるなど攻撃的になる。

 長谷川自身は寮長にまでなったのだから、そういう環境のなかで、うまいこと生き残ってきたのであろう。しかし環境そのものは弱者だけでなく、そのときに強者だったものたちにまで、のちのち影響を残す。

 ”弱いものいじめ”は長谷川なりの生きるテクニックなのであろう。だから”落ちこぼれ”をみつけては、いまも叩こうとする。ただ今と昔で違うのは、昔は集団の中にいたが、今はフリーランスであるということだ。

 だからできるだけ叩きやすそうな弱者やおちこぼれを探しては、過激な言葉で不特定多数のヒトを煽り味方につけようとする。しかしいま現在それがうまくいっていない。なぜかというと言葉に思考がないから、説得力がないのである。

 アナウンサーであるから、トークの技術は一流だ。それである程度ハッタリぐらいはかませるであろう。しかし言葉を活字に変えてみると、これがまるで説得力がないのであった。

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 現代の日本人として生まれてきたからには、自由に発言する権利があるし、その権利を尊重しなければならない。けれども発言には発言する者としての品性がなければいけない。そういう意味でフリーアナウンサーの長谷川豊という人はいただけない。

 これ以外にもハーフで日本国籍を持つ滝川クリステルのことを、公共の電波に乗せて外人呼ばわりするなど、相手を言葉で攻撃する事例はたくさんある。この人の発言について、なにがイヤかというと、この相手ならなにを言っても許されるだろうという、確信めいたものをもって言っているところだ。

 ”こちらが多数派である”であったり”相手は嫌われ者だし”であったりとさまざまだが、つまりはいじめっ子の嗅覚でモノを言っているのだ。ヒトサマの顔についてとやかくいうのはよろしくないのを承知でいうが、小生はこの人の顔を正視できない。

 というのも見るからに、底意地の悪そうな顔をしているからだ。その長谷川の顔から発せられる眼光が、小生の自衛本能を働かせ、バリアを張らせてしまうのである。なぜに長谷川は、ああいう発言をくり返すのだろうか。

 もし育ちが原因とするならば、彼の母校日生第二高等学校にあるのかもしれない。いまは校名が変わってしまったが、三重県の自然豊かな場所にある全寮制の学校だ。彼はここで寮長にまでなったというのだ。

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 取材で得た執行の情報を逐一伝えていく報道に対し、ツイッター上では、「7人もの死刑執行を予告し、TVで順次、執行状況を報道するなんてやっぱり異常事態だよな」「こんな死刑執行の報じられかた、初めてじゃないですか?」などと驚きの声が上がった。中島岳志・東京工業大教授(日本思想史)は正午前、ツイッターに「いま行われているのは、死刑のショー化・見世物化に他ならない。執行場面だけが不可視化された公開処刑だ」と書き込んだ。

死刑囚写真に次々「執行」シール TV演出に疑問の声も
 

 小生は死刑反対派である。ニンゲンの命がどうこうだからというのではなく、そもそも死刑とはなんのためにあるのかという意味において、いまの制度は中途半端であるからだ。刑罰というのは復讐の手段ではなく、社会における犯罪抑止のためにある。

 だから犯罪抑止になるのであれば”公開処刑”があってもいい。犯罪抑止になるのであれば、ショー化や見世物化にもならない。あくまでこれは極論であるけれども。

 それともうひとつ、いまの死刑までにいたる制度は、最終的に”はい殺処分しました。これで終わり”でしかない。システムとして死刑にするだけなら、やってもしょうがない。

 いまの制度で死刑になるヤツといったら、無反省のまんま再審請求を出しつづけるヤツか、無反省のまんまニヒリズムに則って”さっさとやれよ、死ねば終わりだ”というヤツばかりではないか。それならば終身刑という制度をつくって、被害者の遺族が面会したいといえば、いつでもできるようにするのがよろしい。

 百歩譲ってもし死刑制度を続けるというのなら、十三階段をあがって絞首台にいたるまでの様子を被害者遺族が直接みられるようにし、NHKも生中継すればいい。もちろんEテレだ。死刑というのは本来それぐらいの重要な意味がある。

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