ハードボイル道 ~死生観と生き方を考えて~

表題のとおり。あとおまけとして管理人が撮影した写真も載せてい〼

カテゴリ: 随想

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 あるヒトがこんなことを言っていた。”ヒトは死なない(肉体が死んでも)触覚がなくなるだけだ”と。死んでもいないのに、よくそういうことが言えるなとツッコミのひとつやふたつ入れたくなってしまうが。

 じゃあ、ばたけん。おまえはなにか答えられるのかと言われたら答えはひとつ。死後の世界なんて見たことないからわからないというのが答えだ。つまり答えなんてない。死後の世界があるというヒトもないというヒトも、その言っていることは個人的見解にすぎない。

 現時点で小生が言えるのは、死後の世界はあるかもしれないし、ないかもしれないということだ。だからどっちに転んでもいいように、ある程度の心の準備をしておくといい。ちょっとでいいから、哲学と宗教について考える時間を作るのである。

 現世においては死ぬことが怖いかもしれない。だが死ねばなんとかなる。いまは自分の存在が無になるかもしれないことに怖れがあるかもしれないが、無になればその怖れも無になる。

 でもあの夏目漱石ですら死ぬ間際になって、「死んだら困る」って言ってしまうぐらいだから、実にむずかしいテーマではあるのだけれど。

今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。
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 たとえばあなたが特攻隊のパイロットであったとしよう。そして仲間が亡くなり、あなたが生き残り終戦を迎える。そうなった時に、あなたはどう思うだろうか。きっと仲間の死を前にして、生き残ってラッキーだとは思わないだろう。

 なぜ仲間が死に、自分が生き残ってしまったのか。その”不条理”さに悩まされるかもしれない。ただ不条理と思えることも、幾重もの偶然によって出来ている。ヒトの死というものは、どのようなものでも、偶然の積み重ねによって起こる。

 自堕落な生活を送れば早死する。それは正しいようで、正しくないところもある。同じ年齢で同じような自堕落生活を送っても、同時には死なない。それは体質の違いで、死なないニンゲンの方が健康だったのか。

 でもそうとも限らない。たまたま健康な方が、ひょんなことから脳の血管が詰まって死んでしまうということも考えられる。死というものは、偶然が重なり起きるということにすぎないのだ。

 つまりヒトの死に必然というものはないということだ。ヒトの死に運命などというものはない。ましてやニンゲンが同じニンゲンに対して”お前の死は必然だ”として死に追いやることは、大きなまちがいであり、欺瞞に満ちた言動なのである。

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 小生には議論ということについて、こだわりみたいなものがある。それはあくまで議論というのは社会について語るものであって、相手を攻撃するためや、レッテルを貼るために存在するのではないというものだ。

 だが実際にはインターネットを中心にして、”議論”は相手にたいする人格攻撃の道具にされたり、自己主張を一方通行で述べるだけのものになりつつある。社会を語る議論にはそもそも勝ち負けなどないはずなのに、やけに勝ちにこだわる者も多い。

 勝ち負けにこだわってしまうと、結局はデマゴーグがはびこったり、最初は一対一の議論であったのが、どっちが多数派を形成するかの”勝負”の話になる。そうなると議論そのものが不毛になり、次第に”問答不要”になる。

 ”問答不要”になるとどうなるかというと、裏で圧力をかけるなど、工作をしだして相手の言論を封鎖してしまう。いま現実にそうなってはいないだろうか。もはや最初から問答不要になってしまっている。

 だがもう一度いうが、社会のことを議論・論争するのに勝ち負けなどないのだ。年の功や学歴などの差でコテンパンにやられたとしても、その結果がすべてなのではない。むしろちっぽけなことだ。社会について疑問を持ち自分や他人と問答する。その行為こそが重要なのである。

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【功利主義について】
基本的な考え方は、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだと言うもの。正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)をもたらすものであるとジェレミ・ベンサムは論じた。

 たとえば日本人が中東でイスラム教徒に殺害されたとき、憎しみからはなにも生まれないと説いた人がいた。また死刑制度に反対する人がいる。その両方にたいして、共通する疑問のようなものを持っていた。

 それは”この人は殺された人の家族についてどう思っているのか”ということだった。どうも無視しているように見えてしまうのだ。以前からもやもやしていたのだが、本を読んで功利主義というコトバを見つけたときに、ちょっとした個人的発見をした。

 基本、憎むなとか死刑は反対だという人は、最大多数個人の最大幸福を願っているのだなと。それを実現するためには、最小少数個人の不幸なんか知ったことかということなのだろう。

 今のは言葉が悪かったが、黙殺しているといえばいいだろうか。ただそれは間違っていると単純にはいえない。でも単純じゃないからこそ、そういうことに対して常に疑問を持ち続ける姿勢が大事だ。

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Tokyo Ueno


 上野発の夜行列車、降りたら蒲田。人生という長い道のり、いったいどこへ向かおうとしているのか。ばたけん参上。

 なにゆえ大学に籍を置いて哲学を学ぼうとしているのか。それは死ぬための準備といえるだろう。子どものころから死生観というのは、いつもテーマとして持ちつづけてきた。集大成とまではいかなくとも、ある程度まとめられたらと考えている。

 ”自分探しの旅”をしたり、したいと願っている人がいる。”自分”っていったいなんだろう。これは加藤秀俊先生の受け売りになってしまうのだが、”自分”というのは、らっきょうみたいなものらしい。


社会学 - わたしと世間 (中公新書 2484)
加藤 秀俊
中央公論新社
2018-04-18

参考文献

 むいてもむいても結局さいごは核など出てこない。”自分”とは何かというのに、答えなどないのである。だから旅をしても”自分”は見つからない。でもこうばたけんは考える。旅をすることで、大きくて食べでのあるらっきょうになるのではないかと。

 だからもし自分探しの旅がしたいという人がいたら、とりあえず行けるところに行ってみればと答えたい。これに関しては、結果よりも過程のほうが重要なのだ。どうせ結果など出やしないのだから。

 ”自分”なんて見つからなくていいのだ。それが結論である。どうせ死んだら無になるとはいわないけど、いちどリセットされるのだ。そこから”自分”はどうなるかはわからないけど、いろいろな可能性は考えられる。

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