ハードボイル道 ~死生観と生き方を考えて~

表題のとおり。あとおまけとして管理人が撮影した写真も載せてい〼

カテゴリ: 随想

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Tokyo Ueno


 上野発の夜行列車、降りたら蒲田。人生という長い道のり、いったいどこへ向かおうとしているのか。ばたけん参上。

 なにゆえ大学に籍を置いて哲学を学ぼうとしているのか。それは死ぬための準備といえるだろう。子どものころから死生観というのは、いつもテーマとして持ちつづけてきた。集大成とまではいかなくとも、ある程度まとめられたらと考えている。

 ”自分探しの旅”をしたり、したいと願っている人がいる。”自分”っていったいなんだろう。これは加藤秀俊先生の受け売りになってしまうのだが、”自分”というのは、らっきょうみたいなものらしい。


社会学 - わたしと世間 (中公新書 2484)
加藤 秀俊
中央公論新社
2018-04-18

参考文献

 むいてもむいても結局さいごは核など出てこない。”自分”とは何かというのに、答えなどないのである。だから旅をしても”自分”は見つからない。でもこうばたけんは考える。旅をすることで、大きくて食べでのあるらっきょうになるのではないかと。

 だからもし自分探しの旅がしたいという人がいたら、とりあえず行けるところに行ってみればと答えたい。これに関しては、結果よりも過程のほうが重要なのだ。どうせ結果など出やしないのだから。

 ”自分”なんて見つからなくていいのだ。それが結論である。どうせ死んだら無になるとはいわないけど、いちどリセットされるのだ。そこから”自分”はどうなるかはわからないけど、いろいろな可能性は考えられる。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。
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(写真メモ)
2018年6月2日 横浜開港祭の花火



 もうなんか疲れてしまった。ぼんやりと不安が見え隠れする。だからといって、いますぐどうこうするわけではないが、死というものに考えがおよぶ。終わりのみえない花いちもんめ。いつも最後まで残ってしまうのに、また同じ遊びをくり返しているその真っただ中で。

 いまからちょうど10年前に弟を亡くした。下宿先で寝ているあいだにそのままいった。職場の同僚が仕事に来ないのを心配して、様子を見にきたら発見されたらしい。簡単な手続きを済ませて、下宿先の片づけをしに行った。

 そこで見たのは、コンビニ弁当の空トレーの山であった。弟は肥満体で野菜を食べない人間であった。そのあとかたづけをしながら正直感じたのは、”うまいことやったな”だった。早すぎる死は無念だったが、死に方としては上出来だった。

 苦しまずに寝ながらそのまま。そしてすぐに会社の人が発見してくれて、腐りもせずに、きれいなままで荼毘に付されて。残されたあとかたづけをする家族に肉体的にも金銭的にも負担をかけなかった。

 いまおもえばあれは、まろやかな自殺だったのだ。もちろん本人は死ぬつもりなんてさらさら無かっただろうけれども。自覚のない自殺行為などというのは、そこらへんにいくらでもあるものだ。死ぬときは、まろやかに死のう。

今日のところはこれまで。ごきげんよう。
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